我正在學中文

言語習得スキルが日本人に不足しているということを考えるため、自分自身も含めた、多様なコミュニケーションに対して研究を重ね、それを克服するためのコンプレックスを抱えることも兼ねています。それを通じて、より豊かなコミュニケーションを可能にするため、言語習得スキルに関する研究を続けています。

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読書 「情報編集の技術」

情報は編集しなければ何にもならないのである。

 

文字情報の取り扱いを中心とする新聞の制作過程を示す。
新聞作成工程は、少なくとも三つの工程でなりたっている。

 

1)記者が取材をする

2)編集者が記事を選び出す

3)整理者が見出しを作って紙面にしたためあげる

これに写真情報が加わってくると、

 

4)カメラマンが写真を撮影して

5)写真編集者が現像して(デジタルなら加工)

 

などが加わってくる。

 


 
家庭用のビデオ編集でも、同じことが言えるが、
単に撮影しただけの映像は、単なる素材に過ぎない。
 
料理であれば、新鮮であれば調理せずに
満足行く味わいを味わえるかもしれない。
 
しかしながら、ビデオの場合は、その現場で撮影した人しか
背景を知らないので、そっくり同じ味わい(経験)を再現することは難しい。
(それをなしうるのは、ライブ中継ぐらいだろう。。。)
 
料理にも、仕込から調理までの一連の工程があるように、
そこそこ満足行くものを提供しようとすれば、
ある程度の調理は免れないだろう
 
まして、何度も見返すような作品にしたためるのであれば、
味わいの賞味期限を延ばす工夫が必要になってくる。
 
手間暇かけるとは、まさにそういうことを指している。
 
 
最近ではスマホとSNSがあれば、誰でも簡単にコメント付き写真を
ネット配信できる便利な時代になった。
 
また無限に存在する大量ストレージによって、
情報をそっくりそのまま、いつまでも置いておけるようになった。
 
しかしながら、その情報を必要としているのは人間であって、
無限な情報を消化できないもの事実である。

情報編集においては、そのような人間の有限なキャパシティに対して
いかに効率よく残しておくかが課題になる。
 

 

 

昭和16年12月9日 「日本海軍による真珠湾攻撃」の新聞記事によって

人々は歓喜したが、その後の阿鼻叫喚の末路を辿ったのと同じように・・・

 
そして、いまもなお進む、地球の環境破壊や、放射性廃棄物の問題、
今後の人類の未来には決して明るい情報ではない。
 
少なくとも、情報化社会に生きる我々の責任は、
今の我々の所業が何であったのかを、
伝えていく義務があって、それらはやはり
情報編集者の責任なのである。
 
これから、我々が情報をいかに残していくかは、
真剣に考えていかなければならない。